「小さき者へ」有島武郎
こんにちは、ささやまのどかです。
何の本から書こうかと考えたけど、やっぱり一番心をうたれた本の事から書こうと思います。
この本は、1918年に書かれました。おぉ、今からちょうど100年前ですね。
有島武郎が実際に奥さんを病気で亡くし、残された幼子3人に向けて自分の気持ちを書いた本です。
私は16年前の春、26歳の時に、母を病気で亡くしました。
病気がわかった時も、亡くなった時も、とても辛かった。
でも私はもう成人していたし、自分も早く気持ちを切り替えて、仕事をして結婚して子供を生んで、自分の家庭を築いて幸せにならないといけない、次のステップにいかないといけない、と思いました。
でも何をしても、やはり夜になれば母を思い出して悲しくて泣けてくる。
母がいた家に帰るのが辛い。仕事も忙しかったので、なるべく遅く帰って、家にいないようにしました。
“こんな風に、いつまでも悲しんでいてはいけないのに。ダメだな、私は。いつまで辛いんだろう。”
そう思って、誰かに迷惑をかける訳にもいかないので、外では笑って、家では一人で泣くようにしていました。
そんな時に、有島武郎の「小さき者へ」を読みました。
私はもう小さくはなかったけれど、その文章は私の心をうち、涙が出て仕方なかった。それは何より私の心を慰めてくれる文章でした。
世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも
倦 きはてる程夥 しくある事柄の一つに過ぎないからだ。そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。それは確かにそうだ。然しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちの事柄の中からも人生の淋しさに深くぶつかってみることが出来る。小さなことが小さなことでない。大きなことが大きなことでない。それは心一つだ。
小さなことが小さなことでない。大きなことが大きなことでない。それは心一つだ。
この文章に、どれだけ慰められただろう。100年ほど前に書かれた本が、私の寂しい心を慰めてくれる。
小さい頃から本は大好きだったけど、文学ってこういう事なんだろうかと、初めて身に染みて思いました。
私は文学の勉強もしたことはないし、難しい本も読めないけれど、以前、阪大文学部長の式辞の「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます」との言葉をネットニュースで読んだ時、本当そうだなと思いました。
然しこの悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ。私共の根はいくらかでも大地に延びたのだ。人生を生きる以上人生に深入りしないものは
災 いである。
女ながらに気性の
勝 れて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。
あちこちに、心うたれて線を引きました。
私は今結婚して、子供にも恵まれ、幸せに暮らしています。
でも子供ができたらできたで
“この子達をお母さんに見せてあげたかった、子育てで悩んだ時、お母さんに色々聞きたかった、孫を可愛がってくれる姿を見たかった”
そんなことを思って、寂しく感じるものです。
でもどんな時も、有島武郎の「小さき者へ」は私の中では、幾度も幾度も読み返しては慰められ励まされる大切な本です。
なかなか文章で伝えきれない自分の力不足が悔しい…。
有島武郎の「小さき者へ」を読んで、お母さんを亡くして悲しんでいる人が、一人でも心を慰められるといいなと思います。