子ども時代、実際とは違う褒められ方をしてとまどったことがある。
本当はそうじゃないのに誉められたもんだから、何も言えなくなってしまう後味の悪さ。
子どもの頃って、大人や同級生が褒めてくれる機会って割とある。
お世辞にしろ何にしろ。
でもね。たまに“本当はそうじゃないんだけどなー”っていう褒められ方をする時があって、でもせっかく褒めてくれている手前、何て言っていいか分からず無言で受け入れる、という。
そんな時の心の中は複雑で。大人になった今は普通に否定して、本当のことを話せるんだけどね。
例えば小学校5年の頃、図工の時間に描いていた風景画。
これね、半年がかりで田んぼの風景とかを描いていたんですよ、クラス皆で。担任の先生の趣味だと思うんだけど。
秋から冬にかけて、だったかな。
だから最初稲穂が垂れていたのが、しばらくすると刈り取られたり、まぁどんどん田んぼの風景が変わっていくわけ。長期間だから。
最初は楽しんで丁寧に描いていたんだけど、以前の稲穂の風景を思い出して描かないといけなくなるでしょ。忘れてくるでしょ。で、だんだん面倒になってきて、もう最後の方はかなり適当になってきたんですね。
で、一番手前の木の根元あたりはヤケクソになってきて、カッサカサになった筆先をポンポンポンポン判子みたいに押していったんですよ。深緑や黄緑や黄色の水彩絵の具を適当につけて。“ええい、もうここはこんなんでいいや~。ハッハー。”と思って。
そしたら、そこが同級生から一番褒められたんですね。フワッとした感じが出ていて上手だって。
でもこっちは嬉しくないのよ。だって奥の田んぼの絵の方がよっぽど時間かけて一生懸命描いたんだもの。褒めてくれるなら、そっちを褒めてほしいのよ。
だけどねぇ、友達がせっかく褒めてくれているんだもの、「あー、そこはヤケクソで描いた部分だよ。」とも言えず「ありがと~。」って複雑な笑顔を見せるのみだったなぁ。
灰谷健次郎さんの何かの本でね、少し似たような話があってね。小学生の男の子が動物園で写生をしていて、途中で雨が降ってくるんですよ。そしたらヒョウの絵だったかな、それが雨に濡れて、黒い絵の具が少し流れて目だけがギラリと光って、迫力のある絵になって、それが賞までとって皆に褒められるっていう。でも男の子はあんまり嬉しくないのよね。雨が仕上げた絵だから。
それ読んだ時、あ~私とは少し違うけど、気持ち分かるなぁって思って。
今、自分の子どもと話していてもたまに感じるんです。
まだ出来ていなくても頑張っている部分を褒めないといけなかったって。
適当に「これが凄いねー」なんて褒め方をしたところで、今一つ腑に落ちない表情で「そう?」という返事が返ってくる。かと言って、時間をかけたけど成功しなかった所を褒めても、逆切れされたり…。
子どもの「頑張って出来た!」と親の「すごい!」が合致して初めてハッピーな結末になる。まーなんにせよ、自分の子どもをちゃんと見ておかないといけないって事なのかな。
褒め方って技術がいるんですね。認めてほしい所をスコーン!と言える親になりたい。
例えば食べた後片づけを、10回のうち2回出来て8回出来ていなかった場合。
真っ先に「8回出来ていなかったから次はもっと出来るようにしようね!」なんて言うとうちの子は死んだ魚の目になります。シャットアウトしてんのかなあれは。
じゃなくて、「2回も出来てる、すごい!2回はちゃんと覚えて出来たんだね。」と先にできた事を褒めてから「次はもっと出来るかもね。」と言うとちゃんと聞き入れます。
大人でも先に否定されると話を聞く気がなくなるのは一緒かもしれないです。
褒める時は、相手の上手な部分よりも頑張っている部分を褒めた方が、喜んでもらえるかも。注意する時は出来てる部分を褒めてから話すと素直に聞いてくれるかも。でもこっちも人間だからむずかしいよねって話、でした。